従来、倭人に付いての学説は色々有りました。倭人や倭国の付いての検討は重要な問題だと感じています。
倭人に付いて検討されない事は、日本のナショナリズムの問題だけでなく、韓国北朝鮮に付いての問題でも有り、対中国の問題でも有ります。
歴史問題を見直すには、東アジアに有っては倭人の問題は重要です。鳥越憲三郎「古代中国と倭族」と言う書物が有ります。此処では、倭族を大陸水稲稲作文化を持つ民族に置いています。この様な視点に、私も賛成です。
中国古代史に散見する倭人は、この様な水稲稲作民の沿岸交易民であったでしょう。その様に考えないと、朝鮮半島南部と日本列島水稲稲作文化の広がりが見えて来ません。
現代日本語と朝鮮語の違いの大きさをも、理解する事が難しいでしょう。大陸水稲稲作文化人の推定できる言語は、どの様に見ても日本語に近い言語であった様には見えません。現代日本語は、大陸水稲稲作民文化人より、より固有日本列島人に近いはずです。
古代大陸水稲稲作文化人の言語は、やはり、タイ語系統の言語近い様に思えます。日本語には文化語として取り入れられているはずです。
倭国と言うのは如何かと言えば、此れは日本列島に存在したとしか考え様が有りません。倭国と言うのは、倭人文化を受け入れ混血をした、日本列島人の“ナノリ”であったでしょう。又は、古代中国人による誤った認識で有ったのではないでしょうか。
朝鮮半島南部でも、同じ様な状況が有ったのではないでしょうか。交易民倭人と混血し、水稲稲作文化を受容した、朝鮮半島南部人と言う状況です。
倭人を交易民と考える事で、縄文期に、青森県に水稲稲作遺跡が存在しても、驚くには当たりません。当然あり得べき状況です。
又、卑弥呼で代表される文化は、倭人文化を受容した日本列島人でありましょう。交易民としての倭人の国ではないでしょう。倭人文化を受け継いだ文化人では有ると思います。
此の時期は朝鮮半島南部にも、大陸倭人の水稲稲作文化を受容した、朝鮮半島南部人が居た筈です。現代でも朝鮮半島南部には、水稲稲作文化複合体としての文化が残されています。
中国古代史にその後現れる倭の五王は、それ以前の倭人系の出自ではないでしょう。明らかに、此の王朝は、朝鮮半島の新羅、百済と言った王朝を支配していると主張しています。新羅の出自は、自ら“扶余”と名乗っています
。此れは、満州方面から起こった狩猟民でしょう。
朝鮮半島南部に存在した筈の倭人系統を支配したものでしょう。新羅も似ています。日本列島の倭の五王も同じ系統の王朝ではないでしょうか。
この様に考えて行くと、江上波夫「騎馬民族日本征服説」に近いものが有ります。しかし、騎馬民族と言うのを、満州系狩猟民族と言い換える必要性が有ります。当時は満州地方は動乱期にあり、モンゴリアの遊牧民の文化的影響も有って、狩猟民でも騎乗の風習を獲得していたでしょう。狩猟民と遊牧民では、基本的に文化的差異があります。
満州から北朝鮮地域にかけて存在した高句麗は、扶余族文化を共有していたのでしょう。その様に考えてくると、倭の五王が百済、新羅を含めた連合王朝を主張した事が理解出来る筈です。
日本列島には、古代から高麗人、百済人、新羅人の移住先が伝えられています。遺跡も残されています。これ等の支配層が共通した出自を持っていたと考えれば、これ等の状況が理解出来ます。
大和朝廷時代には渡来人に、帰化人と言う呼び方が有りました。この様に出自を同じくした民族、と言う観念が存在していての呼び方でしょう。
始まりは、倭人をどの様に捉えるかによって、東アジアの捉え方が変わってきます。倭人は大陸沿岸の水稲稲作文化を身に付けた、交易民と言う捉え方でした。天災や戦災によっても朝鮮半島南部へ、日本列島方面へ渡来したでしょう。しかし、其のルートは交易ルートを利用したものでした。交易時期もかなり遡り、縄文期全体に広がっても不思議ではないでしょう。
縄文土器と弥生土器の変化は、住民が入れ替わったと言うより、混血によって文化の様相が変ったのだと、最近の考古学は語っている様です。
東アジアのナショナリズムの対立は、根源を此処の辺りから見直す必要性が有ります。韓国朝鮮語と日本語は、近くに存在しながら違いが大きいのです。古代王朝の一時期の言語は、支配層では共通するかもしれません。
弥生時代初期には、大陸との共通する人骨も出土します。中世には其の特徴は消滅します。遺伝子的には、日本列島人は影響が大きかったのでしょう。
東アジアの民族的対立は、歴史学者にも大きな責任が有ります。此処では其の有り方を正して行きたいと思います。